戦跡めぐるひとり旅女

明治〜昭和の遺構、ミュージアムをめぐる旅のきろく

青森県むつ市の戦跡めぐり①「大湊海軍」遺構/北洋館

本州最北の県である青森県下北半島には、日本の北部防衛の拠点のひとつ、海上自衛隊大湊基地が置かれています。

 

大湊基地の周辺には、海軍時代の建造物が複数残っていて、その一帯が整備、公開されています。

 

大湊で旧日本海軍遺構めぐりをしてきました~。

 

 

 

大湊基地のある場所

 

北日本、大湊警備区域はこう↓

軍時代も、自衛隊発足後も、地理的に北方のロシアが常に最大の警戒相手です。

 

海上自衛隊大湊基地は↑ここ。


どんづまりにある青森の、その県民からも「陸の孤島」と呼ばれている、むつ市の大湊にあります

青森市から鈍行で2時間くらい。

 

どんづまりだからこそ防衛上の拠点になるんですよね。

 

 

 

遺構が残るゾーンはこんな感じ。

ぐるっと周るだけなら一時間もかからないので、お散歩にちょうどいいです。

 

まずは基地のすぐ横にある、北洋館からスタートです。

 

 

 

海軍大湊要港部水交支社(北洋館)

 

水交社、というのは旧日本海軍の倶楽部組織のことで、全国に支社がありました。

この石造りの建物は、1916年に建造され、大湊地区での海軍軍人の社交の場として利用されていました。

現在は、北洋館、という名前で戦争や軍関連の史料館になっています。

 

4月~11月の間、土日祝のみ開館。

自衛隊の管理する史料館なだけあって、資料が豊富で、しかも入場無料。

 

平屋で細長い造り。

 

玄関のアーチ型が雰囲気あってカッコイイ。

脱亜入欧の時代だったので、西洋風の石造りの建物で行われる親睦会(パーティー)への参加は軍人のステータスのひとつだったんでしょうね。

 

建物内は改装されているので、当時と間取りはガラッと変わっていますが、展示品が充実していて興味深かったです。

 

 

 

まず、

大湊地区の海軍と自衛隊の歴史はこうです↓

 

1872(  明治5年) 海軍省設置

1894(明治27年) 日清戦争勃発

1902(明治35年) 大湊水雷団開庁

1904(明治37年) 日露戦争勃発

1905(明治38年) 大湊要港部新編

1913(  大正2年) 大湊防備隊新編

1933(  昭和8年) 大湊海軍航空隊開隊

1937(昭和12年) 日中戦争勃発

1941(昭和16年) 要港部→警備府へ改編

             太平洋戦争勃発

1945(昭和20年)  敗戦

              大湊警備府廃止

1952(昭和27年)    海上警備隊創設(海上自衛隊の前身)

1954(昭和29年) 自衛隊法施行、海上自衛隊大湊地方隊発足

2025(  令和7年)   統合により海上自衛隊大湊地区隊へ

 

軍の歴史に戦争あり、です。

 

 

 

展示室では、

明治/日露戦争〜昭和/アジア太平洋戦争〜戦後、の流れで展示と解説が続きます。

青森県内の元軍人やその家族が寄贈したと思われる展示品は貴重なものばかり。

 

 

 

明治時代のものでは、

日露戦役詔勅天皇のおことば)とか。

日露戦争って120年前なので、よく残っていたなぁと。

 

↑の写真は当時の水交支社の建物。

今の北洋館は屋根は修復されているので煙突がひとつしか無いですが、当時は何本もあったんですね。

 

 

 

昭和になると展示物がぐっと増えます。

 

予科練~~!の制服の七つボタン。

予科練=飛行予科練習生、飛行機の搭乗員育成のための海軍の制度で、茨城県阿見町に訓練施設がありました。

このボタンの寄贈者がそうかはわかりませんが、予科練卒業後に大湊航空隊に配備になった人も当然いたはず。

 

士官と下士官で正帽のマークが違うのがわかりますね

 

わたしは略帽のが好き。だいこーふん

夏冬のセーラー服の展示もありました。

 

セーラー服、水兵さんの帽子といえばこれ。

 

ほかには

 

復元された機銃があったり

 

あと

マイ推し航空機イッシキの模型があったので、とりあえず写真撮っとく

 

 

 

北洋館は、明治35年開庁の大湊水雷団から現在までの、北方の海上防衛をテーマとしています。

そのため、当時の国際情勢の変化、歴史的ににらみ合ってきたロシア(ソ連)との関係、それに関わる大湊海軍の動きが解説されていました。

 

その解説と歴史の流れを、わたしなりに超大ざっぱにまとめると、

明治初期に海軍省設置、北方の防衛のため大湊に軍港の設置を協議しはじめる

日露戦争に勝利後、講和条約によりロシアから得た南樺太半分の領土と北洋漁業の権益を守るため、大湊要港部設置

豊かな漁場をめぐりロシアとの間で紛争多発。大湊から駆逐艦を派遣して警備にあたる。のちに軍事力強化のため大湊海軍航空隊開隊

ソ連と中立条約を結んだ一方で、米英との関係が最悪に。日本軍が真珠湾マレー半島を攻撃し太平洋戦争へ。

戦局の悪化により、米軍が東北、北海道にも来襲するようになり、大湊の警備区域も甚大な被害を受ける

敗戦により大湊警備府廃止。「大湊海軍」の歴史は43年で幕を閉じた。

自衛隊の発足に伴い、旧海軍跡地に海上自衛隊大湊基地が設置される

 

といったところです。

 

終戦直前、1945年8月の大湊警備府の防衛体制

 

↓模型で見るとこんな形。

黄色い枠の一帯が、大湊海軍航空隊の置かれた場所

滑走路があり、現在は海上自衛隊大湊航空基地になっています。

 

赤い枠が、大湊警備府司令部、水交支社(北洋館)、大湊ドックの置かれた一帯です。
現在は海上自衛隊大湊地区隊の基地があります。

 

てか湾の形すごいですよね。

この、くちばしみたいな陸地は、砂が堆積してできる砂嘴という地形で、このおかげで湾内の波が穏やかなのだそうです。

大湊が軍港として選ばれた理由が、砂嘴と湾と内陸の釜臥山が防御に向いているとされたからだとか。

 

地形っておもしろいですねぇ

砂嘴のところに行ってみたいけど、今も自衛隊の敷地っぽいので無理ですね。

 

 

 

太平洋戦争時の展示が終わると、海上自衛隊関連の展示に変わります。

 

わたしは昭和史のほうに興味が偏っているので、現代の艦船についてはよくわからないんですが、艦船マニアにはたまらないんだろーなぁ。

 

 

 

あと別の展示室には、北方領土関連の展示が。

 

資料が古そうなので、最近は更新されていない感じはしますが。

 

「ロシア(ソ連)が、第二次世界大戦末期の1945年8月から現在に至るまで、日本固有の領土である北方四島を不法占拠している」というのが日本政府の立場なので、北部防衛を担う自衛隊の史料館でも必然的にこういう展示をするんだなぁと思いました。

 

当時のソ連の進撃ルートが描かれた地図↓

地図に、しれっと(ソ連の)「直前で中止された北海道分断計画」とあるのめっちゃ怖いんですけど。

 

これは、ソ連が北海道の北半分を占領しようとした計画のことです。

ソ連さんよ〜、俺たちは日本との戦争でものすごい犠牲払ってようやく終戦間近なのに、今さら参戦して日本の本土に手を伸ばすなんてムシがよすぎるんでねーの(超意訳)」というアメリカの猛反対と、ほかにも色々あって結局、北海道分割はされませんでした。

もしソ連が北海道にまで侵攻していたら、ドイツとか朝鮮半島みたいに日本も分割統治されていたかもしれません。

 

あともっと怖いのが、玉音放送の一週間前まで、日本政府は戦争終結にあたり仲介役をソ連に期待していたということ。

ポツダム宣言が勧告され、米英と交渉するのに少しでも日本の有利になるようにしたいと思っていたもののソ連から色よい返事が来ず、焦っていたところに広島に原爆が落とされ、3日後に当事者のソ連があっさり裏切って攻めてきて、同日長崎にも原爆が落とされた、という。

ソ連仲介による和平とか、なんてアホな政策だったんじゃ、もう一刻も早く戦争終わらせんとあかん、となったわけです。

 

おそロシアというか日本お粗末というか…

 

 

 

大湊海軍の歴史に思いを馳せつつ北洋館を後にすると、駐車場の隣に慰霊碑がありました。

雪をかぶった釜臥山はめちゃキレイ~。

釜臥山は、町のどこからでも見える大湊のシンボルです。

 

北洋館からこの釜臥山方面に道路を渡ると、大湊海軍の水道施設があります。

次はそちらに行きます。