仙台駅から徒歩5分、仙台の街のど真ん中にある榴岡公園周辺には戦争遺構が点在しています。
公園の中心にあるのが仙台市歴史民俗資料館で、ここはもともと陸軍の歩兵部隊の兵舎でした。
歴史民俗資料館を筆頭に、公園内の遺構をいくつか見て回りました。
旧第四連隊兵舎
この白壁の洋風の建物は、旧陸軍の歩兵第四連隊の兵舎でした。
歩兵第四連隊は1875(明治8)年9月9日に編成、太平洋戦争終結後に解体され70年の歴史に幕を閉じました。

兵舎は1874(明治7)年に造営。
宮城県内の洋風建築では最古のものらしい。
1945(昭和20)年の終戦まで約70年間、旧陸軍の兵舎として利用され、終戦後は米軍が駐留、米軍撤収後は警察学校などに使用されたそうです。
その都度改装されますが、1978(昭和53)年に文化財として指定されたあとに1904(明治37)年の状態に復元されたとのこと。
1979(昭和54)年に仙台市歴史民俗資料館として開館、その後改修され、今に至ります。
▼明治の歩兵第四連隊の営所の全体図

▼いつ頃のかは不明ですが、写真が登場してからの営所全体図

かつて複数あった兵舎や本部の建物は、榴岡公園の整備のため取り壊されています。
仕方ないけどもったいない、、、

今はこのようになっています。
現存する兵舎はもとからその場所にあったわけでなく移築されているとのこと。
芝生地は、かつての兵舎の営庭で、連日厳しい訓練が行われていました。
もちろん仙台市歴史民俗資料館も見学してきました。
軍や戦争関連の展示が充実していて大変学びになったので後日紹介します。
朝鮮戦役記念之碑
1885(明治18)年12月建立。
資料館の近く、榴岡公園の一角にひっそり建っています。

この石碑は、1884(明治17)年、朝鮮半島で起こった「甲申政変」にあたり、日本大使館護衛のため、漢城(ソウル)へ派遣された歩兵第四連隊の「軍功」をたたえるために建てられたものです。
当時のアジアは、欧米列強の進出による清の弱体化や新興国日本の著しい近代化などにより、それまでの清を中心とした体制=華夷秩序が崩れ始めていました。
朝鮮も当然その渦中にありました。
「甲申政変」は、日本軍の協力を受け西洋式の近代化をすすめたい「新日派」の独立党が、今までどおり清との封建的関係を継続すべきという「親清派」の事大党を倒し、国政改革を図ろうとした政変でした。
日本の近代化以降、軍都仙台の兵力が最初に国外に向けられたのがこの「甲申政変」であり、歩兵第四連隊は事大党側の清軍および朝鮮軍と戦い死傷者を出しました。
ちなみに政変は清軍の反撃によりあっけなく失敗に終わり、首謀者のひとり金玉均は日本へ亡命します。
朝鮮でも日本の明治維新のような改革が起こせると期待し、金玉均らを支援していたのが福沢諭吉だったのですが、このクーデタ失敗に失望、政変の翌年に「脱亜論」を発表しています。
140年前のものなので掘られた字が全体的に薄くなり消えかけているものの、一部はちゃんと読めます。

今こそ高校の漢文の知識が試されるとき!と頭をフル回転しましたが、
「わが兵(連隊のことかな)死者3人傷者9人」
「明治18年7月、中隊が東京に帰還した」
くらいしか判読できず。ちーん。
ちなみに明治18年は、国内では首都防衛の要となる東京湾要塞をせっせと建造していた年。
大政奉還から20年足らずで、サムライを滅ぼし国内を安定させ(西南戦争)、外国との戦争に備え軍事施設を造り、国外に兵を送るまでになった、このときの日本の近代化、軍備拡張のスピードって凄まじかったんだな~と改めて思いました。
歩兵第四連隊之跡碑
こちらは戦後にできたもの。
1960(昭和35)年9月9日、歩兵第四連隊出身者や縁故者など有志により建立。
歩兵第四連隊が編成されたのが1875(明治8)年9月9日なので、連隊の誕生から85年後にできたということになります。

この碑の裏にとても興味深いことが書いてあったのでざっとまとめてみました。
まず、
郷土出身者により明治8年9月9日に連隊が編成されてから、西南の役、日清日露両戦役、満州事変、支那事変、大東亜戦争に参加し、二回にわたり感状を賜るなど抜群の功績を永く記念すべき連隊だった、
と。

このあとが切ない。
昭和20年終戦にあい、畏れ多くも明治大帝より親授された我が軍旗は昭和20年8月31日午後12時、南部仏領インドシナ、サイゴン市ホックモン町のゴム林内で涙を呑んで奉焼した、
とありました。
日本の無条件降伏後、陸軍大臣は全軍に対し8月31日までに軍旗を奉焼するよう通達を出しています。
軍人にとって軍旗は特別なもの。
ましてや、今と違い当時は天皇の軍隊であるという自負があるので、隊の解散、敗戦を意味する、軍旗を焼くという行為は辛かったはず。
▼下記は仙台市歴史民俗資料館に展示されていた、軍旗祭の写真です。

軍旗祭というのは、連隊旗が下賜された日を記念して年に一度行われる陸軍の式典のことです。
地元仙台で開催されていた歩兵第四連隊の軍旗祭、昭和10年の時点で第61回目(!)。
連隊の発足以来何十年も続いてきたお祭りがあったことからも、軍旗への思い入れが強かったというのが想像できます。
ただ、歩兵第四連隊の実情はわかりませんが、太平洋戦争時に日本軍はアジアでめちゃくちゃなことをやったので、巻き込まれた現地の住民は隊員達とは全く違う感情だっただろうなとも思いました。
歩兵第四連隊の最期がわかった、とても貴重な石碑でした。
さいごに
歩兵第四連隊の石碑に書いてあるように、西南戦争(内乱)・日清戦争(日本の近代化後初めての対外戦争)・日露戦争・第一次世界大戦・日中戦争・太平洋戦争、、、と、日本、明治維新から1945(昭和20)年8月まで、77年の間にこんなに何度も戦争してきていたことに改めてビックリします。
今年は昭和100年。
80年の間、一度も戦争を起こしていない、参加していない、というのは本当に尊いことなんだなぁと。
戦後80年の戦跡めぐりで、わたしは
アジアや沖縄など慰霊の旅を続けてこられた上皇さまが、退位前の平成最期の天皇誕生日の会見で、「平成が戦争のない時代として終ろうとしていることに、心から安堵しています」とおっしゃっていたのを思い出しましたよ。
ご自身の曾祖父(明治)、祖父(大正)、父(昭和)の時代と日本は戦争に明け暮れていて、国民に多大な犠牲が出てきたことを背景にした重みのある言葉。
特に昭和は、天皇のために死ぬことが正義だった時代なので。
当時、そのお言葉に、あ、平和って当たり前じゃないんだとハッとして、涙ぐむくらい感動したんだよなぁ。
令和も戦争のない時代として終ることを祈ります。

仙台といえば牛タン。
仙台発祥の牛タン焼きは、戦後の混乱期のなかで、和食職人がタンシチューからヒントを得て、試行錯誤のうえにあみ出した料理だそうな。
今につながっているんですね~